2006年11月29日

子どもに「ルールは守るべきである」という基本は必要だ

こにの壺焼 - えっけんさんへ
のなかの一文、
ちなみに、私は息子が赤信号でわたっている人を見て「何故あの人は赤信号で渡っているのに、僕は待たなきゃいけないの?」といわれたら、「あれはダメな悪い大人だから、ああいうダメ人間になっちゃいけないよ」と答えています。

に端を発する一連の各所での記事を読んだ。
例えば、このあたりの記事である。
suVeneのあれ: ルールを守らない人はダメ人間か
草日記 - 道徳的命令に従う訓練ばかりやってると、メリット・デメリットを考えて選択肢の中から合理的なものを選び取るのがヘタクソになりそう

「suVeneのあれ」さんの記事は、「こにの壺焼」さんの上記の一文を受けて書かれたものだが、これに対して「こにの壺焼」のkonichanさんがはてなブックマークで
それでは子供にわかりやすいような説明文を教えて(マジで

とコメントしており、これに対する答えもいくつかはてなブックマーク上で書かれている。
(該当のはてなブックマークのコメントは上記の「suVeneのあれ」さんの記事上で表示されています)

このはてなブックマークのコメント類を読んでみたけれど、育児という視点からみると、参考になる意見はほとんどなかった。ほとんとの人が子どもを必要以上に大人扱いしてるなぁ、という印象である。

なので、自分で考えてみた。

社会的ルール(法律を含む)について子どもに教えるには、それがルールであることと同時に「ルールは守るべきである」ということを教えなくてはならない。これが基本だと思う。
大人は時にルールを逸脱することもあるし、ルールは状況に応じて変更されることもあるが、それはあくまで応用であって、「ルールは守るべきもの」という基本ができていなければ、ただの混沌、自分勝手、社会的ルールを持たない動物と同じである。「ルールは守るべきである」と分かっていてあえてルールを守らないこととは全く別の意味だ。
この基本を教えられるのは、せいぜい幼児期までだろう。

「草日記」さんの記事では、このような一節がある。
相手を自律的理性的個人として尊重するならば、「〜してはならない」なんて言う必要は無くて、「赤信号を渡った場合には車に轢かれるリスクが増えるけど目的地に早くたどり着けるよ。信号を守っていれば交通事故のリスクは減るよ。」と教えてやれば良い。(しかし子供は何歳から「自律的理性的個人」になるんだろうか)

まさにここ、焦点は、では「自律的理性的個人」ではない子どもにどう教えるか、である。
「自律的理性的個人」ではない幼い子どもに対して、情報を提供して選択してもらう、ということは不可能である。情報を吟味するための基本的考えをもっていないからだ。
この段階で子どもに行うべきことは、基本的考えの刷り込みである。
「赤信号を渡ってはいけない」という内容には大きくわけて、
1)赤信号を渡ることはルール違反である
2)ルールは守るべきである

という2つの要素がある。
赤信号が危ないのは確かだが、それはあくまで、正面が赤信号の時はそこに進入してくる進路のどこかの信号が青である(ルール上そのように設定されている)ためにそう考えられるのであって、赤信号でも危なくない時はあるし、青信号でも危険なときもたくさんある(右左折車の進入があるなど)。
だから「赤信号は危ないから渡るな」というだけでは、「じゃあ危なくないなら渡ってもいいの?」ということになってしまう。実際、危なくないなら渡っちゃえ、という大人は多数存在するわけだ。
あくまで赤信号が危ないのはルールの根拠であって、その上に「ルールは守るべき」という内容を重ねなければ、教える内容としては足りないことになる。

もちろん、大きくなってから応用としてルールを破るのは、現実にありだ。がちがちにルールを守ってほしいなどとは思わないし、そんな人間は幅がなくてつまらない。
だが、その時に、自分の子には、少なくとも「これってルール破ってるんだよな、ほんとは守るべきなんだよな」と自覚をもって、ちょびっとの罪悪感をもって、破ってほしいと思う。その、ほんのちょびっとの罪悪感があるかないかで、人間としての立ち位置は大きく変わると思う。
ルールは時代や環境によって変化するものであることも分かっている。しかし、ルールを守るという基本がなければ、ルールを妥当に変化させること自体にも意識は向かない。ルールなど存在しないものとして無視すればいいだけのことだから。それは非常に無神経で非理知的な態度だと思う。
そのためにも、私は今は「ルールは守るべきだ」と教えようとしている。

自分自身はロウフル−ニュートラル−カオティック*1というグラデーションの中ではロウフル寄りニュートラルだと思っているので、自分の子どももロウフル寄りになってほしい、ロウフル寄りの人間を世に送りだしたいと思っている*2ので、このような考え方になる。異論もあるだろうが、うちの方針はこうだ。
もちろん、別の考え方の人もいるだろう。明らかに間違った育児というのは存在するが、正しい育児なんてものは存在しない。それぞれの親子、それぞれの個人によって千差万別である。
「赤信号を渡るのはダメ人間だよ」という育児だって幼児相手なら間違っていないと思うし、親がそういうことを子どもに伝えたいなら、それでいいのだと思う。「赤信号だって車がこなければ渡っていいこともあるんだよ」と判断のつかない子どもに教えるよりはずっと良い。

最後に、私が子どもに「何故あの人は赤信号で渡っているのに、私は待たなきゃいけないの?」と聞かれたら、どう答えるか。
相手が幼稚園児くらい*3なら、「○○ちゃんは、渡っていいと思う?」とまず聞き返す。
子どもが「ダメだと思う」と答えたら、「そうだよね、赤信号で渡っちゃいけないよね。あの人はいけないことをしてるんだね。○○ちゃんはいけないことしたい?」と返す。
「渡ってもいいと思う」あるいは「わからない」と答えたら、「赤信号は渡っちゃいけないって前に教えたよね? 渡るのはダメなんだよ」とあらためて教える。そのうえで、「あの人のしていることは、していいことだと思う?」と問う。

肝は、「してはいけないこと(ルールに反すること)は基本的にしてはいけない」という根幹はぶれることなく、ルールに反している他人が現にいることと、自分自身が実際にルールに反することは別の問題である、ということを明確にすることではないか、と考えている。

*1:D&Dかウィザードリィか女神転生シリーズかっていう分け方ですね。ゲームのわからない方すみません。【追記(2006.12.03):ウィザードリィはLawful-Neutral-ChaoticでなくGood-Neutral-Evilだとご指摘いただきました。そういえばそうでした。勘違い。どうもありがとうございました。】

*2:実際にロウフル寄りに育つかはまた別の話。子どもは親の思うようには育たないというのは昔からの定理みたいなものですな。

*3:就園前の2〜3歳なら、「あらー、あの人ダメだねぇ〜、あぶないねぇ〜」くらいしか言えないだろうが。まあ、そのくらいの歳では「あの人はいいのに私はダメなの?」というような、他者と比較する高度な発想はまだないもよう。



ラベル:育児
posted by あずみ at 15:14| Comment(5) | TrackBack(1) | 育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
またもや、いいお話をお伺いすることができました。
ありがとうございます。

うちの近所、田舎なのに信号があって・・・
歩行者信号が赤でも平気で渡る人が多いんですよ。
まだ、娘は「どうして?」と聞いては来ないので、
真剣に考えた事はなかったんですが、
その時が来たら、どうしたものか?と悩んでおりました。

これを機にもう一度熟考してみようと思います!
Posted by こばち at 2006年11月30日 00:08
>こばちさん
これ、いい話ですかねぇ? 自分で書いたあと読み返してみて、ものすごいカタイなぁ、これじゃガチガチの規則人間みたいだなぁ、と思ってました。
実際の自分は状況によって赤信号無視もするし、いろいろなルール違反しちゃいます。ダブルスタンダードなんですよね。だからって子どもに赤信号無視していいよ、とは教えられないし。
で、ダブルスタンダートを筋を通して成立させるためには、と考えたら、ここに行き着きました。

赤信号といえば、歩行者用信号って罠だと思いませんか? 歩行者側は、大抵ボタン押して待っているより、ささっと右左見て渡ってしまったほうが断然早いし、いざ利用すると、歩行者がいなくなったあともじーっと待っている車の寂しげなことといったら……。
Posted by あずみ at 2006年11月30日 00:32
ダブルスタンダード、大いに結構なのでは?
本来は、ルールを守った方が、円滑になりやすいと思います。
でも、ワタシは、そのルールを守るがために、いろいろな経験をしてきました。

例えば、交通事故。
(おそらく、あずみさんもご存知の)某女子大の三叉路の横断歩道を横断中、信号無視してきて大型トラックに飛ばされました。たまたま、ご近所で同じ学校に通う子が信号が変わったら、自転車に乗って横断した後、とぼとぼと自転車を押しながら渡った私が事故にあいました。

ルールを守ったのにどうして?という疑問がわきましたよ。ずるい考えかもしれませんが、結局信号は、目安であって絶対じゃないんだと悟りました。

また、私が自転車を押して渡ったのに、だからって、特に褒められもせず、何の恩恵も受けていません。それこそ、ご近所の子みたいに、自転車に乗って渡っていたら、あんな事故にはならなかったかもしれないと考えてしまいます。

この事故のために勉学はもちろん、先日書いた一番酷かったいじめのひきがねにもなったといっても過言ではありません。交通事故で、ひどく頭を打ち、それを気の毒に思った先生方の好意が他生徒からは贔屓していると言われたのがきっかけですから。

という経緯がありますので、子供には、基本的にはルールは守らなければならないもの。けれども、自分がルールを守っても他の人が必ずしも守るとは限らないし、本当に守らなければいけないのは、自分なのだという風に教えられたらいいなぁ〜と思うのですが、それを生を受けて数年の子供に教え込むのは、大変難しく感じます。しかしながら、こんな風に教え込もうとしている自分がなんだか自分主義で自分勝手かな?とも思えてくるので、もう少しいい考え方はないかと模索していたんです。

そんな時、あずみさんの日記を拝見したので、いい刺激になって、本当にありがたいと思っております。
Posted by こばち at 2006年11月30日 10:05
>こばちさん
交通事故の件は以前拝見しましたが、それがいじめとリンクしていたとはまた驚きの話でした。あれさえなければ……という思い出ですね。本当に、今がお元気で何よりです。

どこまで何を教え込み、どこから自分自身の学習能力に任せるか、というのは、年齢によってレベルも内容も全く変わってくると思っています。
5歳の娘に対しては、少しずつですが、本人から質問があれば場合によってわかりやすい言葉で「大人の理屈」を話すようにしてみていますが、やはりまだ理解自体が難しいようで、「ふぅん」と気の抜けた返事をしておしまいです。
うちの子は親から見ても早熟だと思いますが、それでもまだちょっと早いみたいですね。

>>基本的にはルールは守らなければならないもの。けれども、自分がルールを守っても他の人が必ずしも守るとは限らないし、本当に守らなければいけないのは、自分なのだという風に教えられたらいいなぁ〜
自分主義でも自分勝手でもないと思います。筋の通った考え方だと感じます。

どうもありがとうございました。
Posted by あずみ at 2006年11月30日 11:31
そうですよね、以前、日記にも書きましたよね。

事故のこと、いじめのことを、すぐ、話し出してしまう事、
自分でも、止めたいと思っているんですが、
どーしても忘れられないようです。辛かったという事が。

話す事(書く事を含む)によって、自分自身の反省点を見つける事ができたり、
心の中に溜め込まないで、スッキリできるような気がして、やめられません。

しかし、この調子で、年をとっていって、ずっと言っていたら、
人生楽しいものでも、暗くなってしまいそうですよね。(^_^;)


> 自分主義でも自分勝手でもないと思います。筋の通った考え方だと感じます。
そうですか?嬉しいです。ありがとうございます。

こうやって、あずみさんのような聡明な方とお話をしていると、
個人的にすごく賢くなった気分に浸れて、ちょっと嬉しいです。o(^▽^)o

いつも、へんてこりんなお話にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。
Posted by こばち at 2006年11月30日 14:33
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック

「子どもに『ルールは守るべきである』という基本は必要だ」への補足
Excerpt: この前に書いた記事「子どもに『ルールは守るべきである』という基本は必要だ」について、有意義な記事のご紹介をいただいたこともあり、若干の補足をさせていただく。 【補足1】 前記事で紹介させていただ..
Weblog: ふたつとない日常
Tracked: 2006-11-30 00:40