2006年09月11日

厳しい幼稚園?

我が家のあたりは、9月1日が一律に幼稚園入園の願書配布開始。10月1日が願書受付開始(今年は1日が日曜なので2日)となっている。
そんな時期なので、下の娘の通っている習い事教室でも、来年度年少の学年なので、「どこの幼稚園にする?」という話が出ている。
当の新入園児が2人目以降というところもけっこうあり(うちもその1つ)、そういうところは上の子と同じ幼稚園を選ぶことが多い。そんなわけで、上の子たちが通っている、あるいは通った幼稚園の情報交換などをしたりする。

実は、今上の娘が通っているA幼稚園は、世間では「厳しい幼稚園」と言われているらしい。
通っている本人や親(私)にとっては「え、そうなの? 全然厳しくないけど……」と思うのだが、そういう評価がけっこうあるようだ。
で、幼稚園談義の時、他の幼稚園に子どもが通っているお母さんに聞いてみた。すると、「えっ、それ厳しいよ」という話。
具体的には、通園バスの中の話で、乗車中は基本的におしゃべりしてはいけない、という話だ。A幼稚園では「がまんたいかいね!」と言って、お口にチャックをする(娘談)。
その話をしたら、「えーっ、うちの幼稚園、バスの中で黙ってなんかいられないよ。厳しいねー」と言われてしまったのだった。

そう言われてみれば、多少は厳しいのかなあ。バスに乗る時間は、一番長い子で1時間弱。とはいえ、まだ乗っている子の数が少ないうちは、そこまで厳しくはないようだ。うちの娘は最後のバス停なので帰りは最長時間乗ってくるが、家に近づいてきて残り2人くらいになると、少し先生とおしゃべりすることもあるらしい。
口を開いたからといって厳しく叱られるわけでもなく、「○○ちゃん、がまんたいかいだよ」と注意される程度。
厳しいと言われれば厳しいのかも、と思うが、きつく叱られるわけでもないし、そのくらいの行儀でも厳しいうちに入るのか?という疑問も。

その時、別のお母さんが「うちもバスの中はおしゃべりなしだよ」と言っていた。そのS幼稚園は、噂によると本当に厳しく、音楽教育に力を入れていて、鼓笛隊の大会などに出ているのだが、鼓笛隊や斉唱がうまくできない子は泣くまで叱られることがある、と聞いていた。人によっては「軍隊みたい」というのも見かけた。
しかし、このお母さんによると、S幼稚園も「えー、そんな厳しくないよ、うちの子(今年年中さん)すごいいい加減だけど、そんな怒られたりしないよ。年長さんはわからないけど、年中までは別に普通」とのこと。

A幼稚園は、実際の保育を見る限り、確かに行儀や集団ルール(先生の話を聞いているときは椅子に座っている、など)のことは折にふれて子どもたちに注意していて、行事などでも必要な時はみんなきちんと並んでじっとしていられる。が、もぞもぞ動いたり、前の子をつついたり、砂をいじったりはしている。そういうのは別に注意されない。
また、先生たちが注意するときは声を荒らげることはなく(子どもらに聞こえるように大きな声は出すが)、どっちかというと辛抱強く注意し続けている、という感じである。できない子に無理やりさせている、というふうではない。
子どもたちは、決して窮屈に押し込められてじっとしているわけではなく、先生の言うことは守る、というルールを遵守しべきだ、ということを納得して行動しているように見える。

こんなふうに、年少からきちんと列で並んでいられたり、通園バスでは余計なおしゃべりをしない、というルールを教えたりする幼稚園は「厳しい幼稚園」に当たるのだろうか。
個人的にはA幼稚園あたりは「普通の幼稚園」のような気がするのだが、世間的には違うのかな。
S幼稚園も厳しいらしいと聞いていても、園の子は楽しく通っているようだし、いわゆる「厳しい幼稚園」も中に入ってみれば普通だよ、と感じてしまうものなのだろうか。

幼稚園の印象はだいたい「厳しい幼稚園」「普通の幼稚園」「自由な幼稚園」という分類になるかと思うが、今の「普通の幼稚園」ってだいたいどんな感じをいうのだろうかと、ふと思ったことだった。
「厳しさ」ってなんだろう。
ラベル:育児 幼稚園
posted by あずみ at 11:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月10日

子どもは寂しく感じてはいけないのか

昨日の日記の続き。
今日のテーマはこれである。
2)子どもは寂しさを感じてはいけないのか。

この文章では舌足らずなので、きちんと言い換えると、「子どもに寂しさを感じさせることは悪いことか」となる。

昨日とりあげた記事では、このように書いている。
大人の都合でこどもに寂しさを強要する事は本来あってはいけない事じゃないですか?
こどもに寂しい思いをさせちゃいけないと思いませんか?


私はそうは思わない。むしろ、寂しさを経験してこそ、成長できる、一人前になれるのだと思っている。
もちろん、ここでいう寂しさは、昨日の日記でも書いたように、大人や親が子どもを顧みない、大人に見捨てられたために感じる寂しさではない。親は子どものことを大切に思って育んでいるけれど、物理的に離れたり、あるいは一緒にいたとしても親が自分の仕事をしたり、大人の用件をしたりしている時に感じる、一時的な寂しさのことである。

2人目の子どもを持った人の多くが経験していると思うが、下の子が生まれると、上の子は当然のことながら寂しがる。そして、赤ちゃん返りを起こしたり、そこまではいかなくても、母親の気をひこうとしてイタズラが増えたり、わがままになったりする。
この寂しさは、なくすことはできない寂しさだ。いったん生まれた弟妹が消えることはない。親を独り占めすることはもうできない。今までにはなかった寂しさを経験する。
しかし、大事なことだ。寂しさを経験することで、親の大切さを認識する。いつでも親を自分の思うように動かすことはできないこと、親には親の世界、親のやり方があることを認識する。それが成長であり、自分だけの世界でなく、他者との関係の中で生きることにつながっていく。

おそらく、元記事の著者は、「それは大人の都合ではない」と思うだろう。
果たしてそうだろうか。
むしろ、それこそ大人の都合ではないか。一人のことだけ見ていたいと思うならば、一人っ子でいいのだ。少子化の世の中とはいえ、2人目を生まなければならない義務はない。自分が子を生むことを選んでいるのだ。

つまるところ、世の中は、大人の都合で動いている。社会を動かしているのは大人なのだから、当然だ。
子どもはその大人の都合で出来上がっている社会の中で生きていく。
子どもはそんな大人を見て、大人がうらやましかったり、大人はずるいと思ったり、大人って汚いと思ったり、早く大人になりたいと思ったりする。
そして、やがて大人になる。大人になって、大人の都合、大人の理屈を知る。
そんなことを、人間は、もう何百年何千年も続けてきたはずだ。
今の大人もみんな昔は子どもだった。
そんな様子を見ていると、子どもを寂しがらせてはいけない、大人の都合で動かしてはいけない、なんて言うこと自体、大人の勝手な思い入れであって、本当は子どもはもっとたくましいんじゃないか、と思うのだ。

ちょっと前までは、生活はこんなに便利じゃなかった。
家電製品が揃ってきたのも、自分たちが生まれたころ。それより前は、専業主婦だって、家事に時間がかかって大変で、子どもと一緒に遊んでいる時間なんてあまりなかった。
今よりも第一次産業に従事する人が多くて、子どもにかまけている時間は今ほどにはなかった。
そんな中で、子どもたちは寂しかっただろうか。
子どもは子ども同士で遊び、大きい子は小さい子の面倒をみた。それで寂しかっただろうか?

最近、いろいろな事件の報道を見ていたり、さまざまな子どもにまつわる事柄を見聞きしていると、すごく子ども中心主義だなぁと思う。ようするに過保護だ。
寂しさを知らされない子どもは、親から離れた時の寂しさを知らないから、親と再会したときの嬉しさも知らない。いつでも親が自分の横にいて当たり前だと思う。だから、自分の世界から親がいなくなる、自分の世界と親の世界は別物だ、ということが想像できない。
すなわち、親と自分の適切な距離を見切ることができないのだ。*1

私の結論はこうだ。
子どもには寂しさを経験させるべきだ。
一緒にいられる時間を使って子どもに親の思い、愛情を伝えられているならば、ある程度の寂しさを経験させることは、子どもの成長にとって有意義なことだと思う。正常な範囲での感情の起伏を経験するのは、感情やものの考え方を豊かにするために、とても大事なことだ。
寂しいと感じるから、誰かを求める。誰かを自分にとって大切な存在だと認識する。そこにいて当たり前、ではなくて、そこにいてくれることに感謝し、その存在に喜びを感じる。

ただ、この「ある程度」は正直、個人差がかなりある。甘えっ子もいれば、最初からわりあいあっさりした性格の子もいる(私の幼少時はこっちだった)。
甘えっ子を無理やり離す必要はもちろんない。しかし、どんな甘えっ子でも、いずれ親元を離れ独立していく。小学校に親同伴で行く子は特別な事情がない限りない。
どんな甘えっ子でも、どこかでは喪失の寂しさを経験せねばならない。それが成長というものだ。

ちなみに、専業主婦かワーキングマザーか、というのも基本的には関係ない。専業主婦にも、子どもから離れる時間があっていいのだから。
だから、「寂しくさせないために仕事をやめて家にいてあげましょう」という論調も、私からすれば成立しない。

子どもはたくましいもの。壊れものじゃない、日々成長して、ぐんぐんとシナプスを増やしている存在なのだ。
もっともっと大人が子ども自身の力を信用してあげてもいいじゃないか。ほしいものを大人から与えてあげるばかりでなくていい、自分から探しに行く力だってちゃんとある。
むしろ、探しに行く力をつけられるようにしてやるべきじゃないか。
現に、今の若者たちの多くは、自分からほしいもの、したいことを見つけられなくて、迷っているんだから。

*1:その結果、親と離れたいと思った時に過剰反応として起こるのが、最近報道の多い「親殺し」なのではないか、というのが私の考えだが、それはこの記事のテーマからはずれるので、後日別項で述べる。

ラベル:育児
posted by あずみ at 11:53| Comment(3) | TrackBack(0) | 育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月09日

子どもはほんとうに寂しいのか

このような記事に行き当たった。

Yahoo!ブログ 〜ピースパイプ 一緒にいてあげて

この記事を読んで、なにか気持ちがもぞもぞする、納得できない思いがした。
しばらく考えていたら、もぞもぞの原因は2つあることに気がついた。

1)子どもは本当に寂しがっているのか。
2)子どもは寂しさを感じてはいけないのか。

1)に関しては、記事の中で、あくまでこの記事の著者が、たまたま見かけた子が寂しそうに見えた、寂しがってるんじゃないかと思った、という主観の話である。
子どもが一人ぼっちで暗い部屋の中にいたならば、それは寂しいだろう。が、そこは保育園である。保育士さんが一緒にいてくれる。
保育士さんなんて他人だから親の代わりにはなれないって?
それならば、そこが保育園ではなくて、例えばお祖父ちゃんの家に預かってもらっていて、祖父母と一緒に待っているんだったらば、やっぱり寂しそうに見えるだろうか。
祖父母ならば血縁者だからそんなには寂しくないって?
それならば、現代ではあまりないことではあるが、乳母や住み込みのお手伝いさんと一緒だったらどうだろう。やっぱり寂しいだろうか。
子どもにとって誰が一緒にいて嬉しい人なのかは、それぞれだ。保育士さんだって、毎日長い時間一緒にいれば、子どもにとって近しい存在になる。
もちろんお母さんが一番、これはおそらくたいていの子どもがそうだ。が、一番の人以外にも、好きな人がたくさんいる。これが子どもにとっては本当に幸せなことなんじゃないかと、私は思うのだ。
この人の論調は、あまりに、母親以外の周囲の人の存在の重さを軽んじているように思う。むしろ、もっともっと母親以外の人が育児に関わって、母親だけが育児の重さを背負わなくてもいいようになること、母親がいない時があっても他の人の存在が子どもを寂しさから救ってくれる状況になるくらいのことが、ワーキングマザー以外にも必要だと私は思う。父親も育児に参加、などと言われるようになっているにもかかわらず、今の育児は、数十年前に比べて母親偏重主義になりすぎている。

それに、お母さんが来てくれないならばともかく、時間になれば必ず迎えにきてくれて、そのあとは一緒に時を過ごすのだ。一緒にいる時間は短くても、濃い時間を過ごせばいい。夜はお休みに間に合わなくても、朝に会えばいい。休日にはゆっくりと一緒に過ごせばいい。
時間の長さだけが家族の絆を決めているのだと考えているならば、それはやはり偏った考え方だと思う。一緒にいる時間だけは長くても、絆が育たない親子も現実に多数ある。そのうちのいくつかは明らかな虐待につながる。
8時半まで待っていた子のお母さんが、保育園に迎えに来た時をもし見ることができたなら、子どもの嬉しそうな顔だけでなく、母親の幸せそうな笑顔も見ることができたに違いない。
母親から見捨てられて寂しいのと、一時的に距離が離れているから寂しいのとでは、「寂しさ」の内容は全く違う。
前者の寂しさは当然与えるべきではない。が、後者は?

というところで、話は2)のことに続くのである。
が、2)については、長くなったので、項を改めて明日にでも書くことにする。
ラベル:育児
posted by あずみ at 01:10| Comment(4) | TrackBack(0) | 育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月05日

昔はそうだったよね>チャイルドシート

ちょっと前に、はてなブックマークで見つけた記事。
てんこもり。 【過激】知的障害者の女とのセクス
人によってはちょっとギョッとするようなタイトルなのだが、実はボーイミーツガール譚である。2ちゃんねるのスレをまとめた記事で、スレ主の男性が知的障害をもつ女性と出会い、最初は体目当てでつきあったが、結局心も伴うようになって、結婚するという話。
人によっては、ちょっといい話とも感じるような話である。

で、私はこれを読んで、本筋ではないところで「ああ、そうなんだよそうなんだよ」と思うところがあった。
その部分を、上記リンク先の記事(さらにその元は2ちゃんねる)から、以下に引用する。スレ主が当該女性の障害についてコメントしているところ。
彼女の障害について話題になってたけど彼女は後天的な障害だよ
小2の時に交通事故で乗っていた車の後部座席からフロントガラスに
勢いよく頭をぶつけて脳挫傷で3週間も昏睡が続いたそうだ
目がさめたら頭がパァになってたとさ、困ったもんだ・・・

もともとのスレッドの日付は2001年。その時点でこの女性は20代ということだから、1970年代後半から1980年前後くらいに生まれ、事故に遭ったのは1980年代、と推測できる。
6歳未満でのチャイルドシート着用義務化は2000年4月。運転席と助手席のシートベルト着用義務化はそれより前だが、後部座席のシートベルト着用は今でも義務ではない。この時代、まだ前席でもシートベルトをしないのは普通だったし、チャイルドシートというもの自体、日本ではまだ知られていなかった。

この記事や元のスレッドを読む限り、この女性の両親は健在で、事故当時は怪我もしたのだろうが、スレッドの当時、特に後遺症をもっている様子ではない。
いわば両親にとってはその程度の事故だったのだが、娘は後部座席からフロントガラスまですっとんで、本当ならば健康に楽しむことができたはずの人生をスポイルしてしまったのだ。
親にしてみれば一生痛恨の出来事であろう。

こういう話を見ると、現在、チャイルドシートに子どもを乗せない親に対して、怒りすらこみあげてくる(もちろんこの女性の親御さんたちに対してではない。年齢的にもややずれるし、当時はそれが常識であったからだ)。
自分は当然、幼少期は後部シートベルトなし(あっても高級車で2点式)、チャイルドシートなしの世代だが、今となってはそんな状態で子どもを車になぞ乗せられない。恐ろしい。
ほんのちょっとシートベルトやチャイルドシートに慣れるだけで、そのような気持ちになる。
そして、子どもたち自身も、それが当然と思うようになり、6歳以上のシートベルトは義務ではないが、5歳までチャイルドシートやジュニアシートを使用していれば、自然と継続して使うようになるものだ。
実際、うちの上の娘は、現在5歳だが、シートベルトは当然するものだと思い込んでいる。

交通事故の重篤な結果は、死亡だけではない。シートベルトをつけていたり、チャイルドシートをつけていたりさえすれば、本人の生涯と家族の人生を悪い方に変えてしまうような重い後遺症を負わなくてすんだのに……というケースもあるのだから。
posted by あずみ at 15:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月31日

赤ん坊はなぜ死んだのか

ちょっと前に報道されてから、気になっている事件の1つがこれ。

MSN毎日インタラクティブ

報道当初、「4ヶ月の乳児を乳児を5時間も放置するなんてひどい話だ」「しかも映画だの食事だの自分の都合で遊びに出かけてるだけだろう。非常識だ」という論調をあちこちで見かけた。
まあ、それは私も同意だ。これを繰り返していれば、十分ネグレクトの虐待に該当する。1度だけだとしても、非常識、育児放棄には変わりない。
が、気になっているのはそこではない。
報道では、
男児は寝返りをうってうつぶせ状態になり窒息死した可能性が高い。警視庁池袋署は重過失致死や保護責任者遺棄致死の疑いもあるとみて母親から詳しく事情を聴いている。

とあるわけだが、これは実際に窒息死だったのだろうか、という点である。

SIDS(乳幼児突然死症候群)という病気がある。
特別に異常がみられない元気な乳児が、突然なんの前触れもなく亡くなってしまう病気である。あくまで病気であり、窒息をはじめとする事故や外因死を除外しなければ診断できない。
が、一つの症候群としては確立されている。生来、循環器系や呼吸器系に弱いところがあり、睡眠が深くなることによって呼吸が弱まり、呼吸停止に至るのではないか、とも考えられている。
親の喫煙、うつぶせ寝、人工栄養はSIDSのハイリスク要因とされているが、このうち、喫煙とうつぶせ寝については、呼吸を弱める要因になる、という説がある。
昔、SIDSという概念が普及していなかったころ、特別な要因もなく乳児が突然亡くなると、「母親がちゃんとみてなかったから、布団や枕などで窒息したんじゃないか」と責められることが現実にあった。
今では、そのような突然死のうち、何割かはSIDSであっただろう、病死であり親には咎がなかった、と考えられている。

この事件で亡くなった赤ん坊は、もしかして、SIDSであった可能性はないのだろうか。
親が5時間不在にならなくても、亡くなる運命にあった可能性は、どうなのだろう。
SIDSは睡眠時に起こるので、たとえ同じ部屋にいても「よく寝てるな」と思っていて呼吸停止に気がつかないこともある。5時間どころか、1時間程度でもある。
事件性を考えると、解剖も行われているはずで、その結果死因が窒息であると判明すれば、母親は最低でも保護責任者遺棄致死で送検されるだろう。
が、窒息ではない、病死やその他の内因死となると、母親が5時間家を空けようと、その死には直接はなんら関わっていない、というわけだ。
もしこの母親が、誠実に赤ん坊の世話をし、家にい続けていても、赤ん坊は亡くなっていたかもしれない、ということでもある。

その後、立件されたとも、赤ん坊の死因が判明したとも報道はない。事件から10日以上がたち、少なくとも解剖の時点では、窒息と決定できる要因がなかったのだろう。となると、本当に病死であった可能性もある。
なんで、それが気になっているのか。
たぶん、このかわいそうな赤ん坊が、親に放置されたから亡くなったのではなく、たまたま病気による運命で亡くなったのだ、と思ったほうが、気持ちが楽だからだろう。
ラベル:幼児虐待 SIDS
posted by あずみ at 14:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。