2006年12月29日

「塾禁止」に必須なのは学校の厳格な習熟度別コース化

教育再生会議での野依良治座長の「塾禁止」発言があちこちで取り沙汰されている。
asahi.comより 「塾は禁止」 教育再生会議で野依座長が強調
議事要旨によると、野依氏は「塾はできない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだ。公教育を再生させる代わりに塾禁止とする」と再三にわたって強調。

該当の議事録(PDF形式)へのリンクはこちら

どちみち、仮に塾禁止などという提言を行ったところでそれが実現するはずもない状況なので、まあ年寄りの戯言か、という程度の話なのだが、あちこちで反応があるのは、それなりに何か言いたくなるような案だ、ということなのだろう。
自分も反応しているし。

もしも塾禁止になったら、学校教育現場はどのようになるか、ということを想像してみた。
ここでいう塾は、野依氏の言うように、落ちこぼれを救うものは除き、学校の勉強の範囲を超えて学ぶ進学塾のようなものを考える。
また、基本的に、義務教育である小中学校を想定する。高校以上は、そもそもそこで学ぶか学ばないかが個人の選択にかかっているので、極端なことを言えば、最初から高校に進まないで私塾で学ぶ、ということも可能であるためである。

まず、塾禁止ということにすると、では学校で教える勉学のレベルをどこに置くか、ということが重要となる。
現状では、学校のレベルが低くても、塾で補うことができるため、特に「ゆとり教育」以降は、平均的な能力の児童・生徒が楽に勉強できるレベルよりもやや低く設定されているように思う。
しかし、塾がなくなると、平均的な学力を引っ張りあげるために、平均よりもやや高めの水準を基本とすることになるだろう。水準が低いままだと、大多数の児童・生徒の力を十分に引き出せないことになり、結局将来的に日本国民の平均レベルがだんだん下がることになるからだ。

しかし、そうすると、当然のことながら、勉強に追いつけない子が今よりも多く出てくることになる。そういう水準に設定するから当然である。
そういう子のために落ちこぼれをすくい上げる塾が多くなるだろうが、それでは本末転倒であるから、塾なしでも十分に落ちこぼれをすくい上げられる仕組みを学校内に作らなくてはならない。
補習を増やすという手もあるが、それでは、議事録に出てくる放課後子供プランとやらと対立する。あくまで学校の正規の授業範囲でなんとかしなくてはならない。
そのためにできる方法は、厳格な習熟度別授業である。
小学校の早いうちから、能力別コースに分け、それぞれのコースに合わせた難易度の授業を行う。もちろんさまざまな判断方法によって、コース間の移動は適宜可能とせねばならないが、進度差が出るために頻回の移動は事実上難しいだろう。多くても学期単位程度が限度だろう。

このようなコース別のクラス分けは、塾でよくされている手法である。
つまるところ、よくできる子をより伸ばし、あまりできない子には丁寧に繰り返し教えてそれなりに伸ばす、ということを目指すなら、このやり方は適しているのである。
勉学に関する子どもの能力の範囲は広い。完全な発達障害を除いても、一を聞いて十を知るような子から、発達障害とのボーダーラインの子まで、公立校には広い能力の子が集まる。その能力のグラデーションのうちのどこに水準を置いても、聡明な子には物足りないし、勉学の苦手な子には難しすぎる。たった一つの基準でそれを回避する方法はありえない。
世代の集団全体のレベルを下げて、その世代が30〜40代になるころに、箸にも棒にもかからず世界と太刀打ちできない国にしてもいいつもりならいざ知らず、そうでないなら、学校教育の水準より高い能力をもつ子には、より高い教育を受けられる状況を用意しておかなくてはならない。
現在は公立小中学校には悪しき平等主義があり、すべての子が同等・同水準の教育を受ける、という建前になっているが、それではもの足りない、つまらない子を補うために塾が存在する。塾がなくなるなら、学校がその足りない部分をも補わねばならなくなるのは当然のことだ。

学校がそこまですれば、塾を禁止することも夢ではないかもしれない。
できるはずもするつもりもないだろうが。
タグ:教育
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2006年12月17日

図工に評点はなくてもいいと思う

自分はピタゴラスイッチや佐藤雅彦さんが好きなので、そのあたりを漁っていたら、このようなページに行き当たった。

がんばれ!図工の時間!!フォーラム
「がんばれ!図工の時間!!フォーラム」は、「図工の時間」の応援団です。

 私たち「がんばれ!図工の時間!!フォーラム」は、子どもたちが期待している図画工作(※1)が、保護者=社会から期待されていない(※2)という事実に、強い危機感を抱いています。

(上記ページより引用)

申し訳ないが、自分も「学校の図工」には期待していない一人。
確かに図工自体は子どもにとって楽しいものだし、手先や道具を使うことや、絵を描くためにいろいろと観察することは、子どもの発達にとって有意義なことだ。また、多人数で大作を作ったり、個人では通常もっていないような道具を使うなど、自宅ではできないが学校ならばできることもいろいろとある。

しかし、それに評点をつける現行の「学校の図工」は必要だとは思わない。
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タグ:図工 教育
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2006年12月11日

教員の保護者評価には果たして意味があるのか

保護者による教員の指導力の評価を導入する、という方向で行政は話が進んでいるらしい。

教員指導力:保護者も評価へ 教育再生会議が中間報告案−行政:MSN毎日インタラクティブ

YOMIURI ONLINE: 教委設置義務の撤廃見送り、規制改革会議が最終答申案
 同会議は、安倍内閣が教育再生を重点政策としていることを踏まえ、教育分野で、〈1〉生徒や保護者による教員評価や学校評価を法令で義務化する〈2〉中央教育審議会が提言した教員免許更新制度を、不適格教員の排除を可能な制度とする――ことなど、中間答申より踏み込んだ内容も最終答申案に盛り込んだ。
(上記リンク先、YOMIURI ONLINEより引用)

この方向性は、非常に不安である。
なぜなら、評価する保護者の側が、公正かつ冷静な立場で評価ができるわけがないと思うからだ。
ここでの指導力というのを、教え方のわかりやすさや教科の理解力といった、純粋に教科に関する学力だけの問題だと限定すれば、それに対して多少なりとも評価することが可能なのは、実際に授業を受ける児童・生徒だけであろう。親が子どものテストの点や教科の理解度を見ても、それが先生側の問題なのか、それとも子ども側の問題なのか、切り分けることができるはずがない。授業内容を又聞きしても、子どもが正確に伝えない限り、その伝聞内容から指導力のレベルを推し量るのはまず無理であるが、中学2〜3年生ならともかく、小学生の子どもにそんなことを期待するのが無理な話である。

おそらく、この程度の役割しか果たせないであろう保護者の評価で明らかに悪い評価を得るような教員であれば、保護者に聞くまでもなく、同僚や上司(校長、教育委員会など)から見ても言い訳のきかないような指導力不足が見て取れるはずだ。
現在、指導力不足の教員の処分が意外と少ない、ということが問題とされているようなのだが、これは教育現場においての運用が不十分だということであり、評価の仕方自体が甘くなっていることとは別の問題があると思う。
保護者の評価が行われても、その結果を見て処分を決めるのは当事者である教育現場に他ならない。処分を基準を曖昧にしていれば現状と変わらないし、かといって「何人の保護者から×がついたら処分」などという話になったら、保護者たちが簡単に組織票で"気に食わない"教員を処分することができることになってしまう。それはひどい話だ。

外部からの目が必要、ということであれば、利害関係の大きい立場にいる保護者ではなく、少なくとも教育に関する知識をある程度持った第三者が評価すべきである。保護者評価を導入しても、何も変わらない。
むしろ、上記の組織票の例のように、悪い方に向かう可能性すらある。保護者たち自身、レベルはピンキリなのである。自分の子をひいきする教師に良い評価をつけ、子どもを公正に扱う教師に悪い評価をつける保護者だっているに違いない。そういう保護者は、時として地域社会で力をもち、他の保護者たちを動かす力を学外で持っているケースがある。
つまるところ、学外の力関係を学内に持ち込むだけの結果になるかもしれないのだ。

教員の評価を学内の関係者以外が行う、という考え自体が完全に間違っているというわけではないと思う。
しかし、誰が評価をするのか、については慎重に考えるべきではないだろうか。
少なくとも保護者がするべきではないだろう。保護者は期待されるほど公正でも冷静でもないし、的確な判断力を持っているとはいえない。
保護者の大多数は子どもの親であり、親たちは大抵自分の子のこととなると、広い視野で大局的な判断をすることが難しく、多かれ少なかれ感情的な判断に傾きがちなものであるからだ。

この問題については、やがて小学生の保護者になるであろううちの一人として、そう感じている。
タグ:教育
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2006年11月26日

理系女子を増やす方法(長い目で)

今日の記事は、半分妄想みたいなものですが。

Say::So? - 理系(特に物理系や工学部)を目指す女の子はなぜ増えないか

先日、上の記事を読んだ。
自分も理系女子の端くれ(ただし医歯薬系)なので、興味深く読んだ。
この記事、特に追記以降の部分を読んで思い出したのだけれど、昨年、日経新聞で読んで、おおそういうものなのか、と認識したことがある。
理系を目指す女子学生を増やすため、理系の楽しさを伝える、という目的で、セミナーが開催された、というものだった。新聞で読んだだけのうろ覚えだが、確かそのセミナーは

女子高校生夏の学校 〜科学・技術者のたまごたちへ〜
(メインページ:http://www.gender.go.jp/c-challenge/
これである。

その新聞記事には、理系を目指す女子は、けっこう親や周囲の反対を受けるものであるらしいことが書いてあった。「女の子が理系なんて行ってどうするの」という類のことなのだろう。そういうことも踏まえた上で、理系に進んで現場にいる女性研究者たちが、学問的なことだけでなく、女性研究者の実際の環境などについても話す、というイベントを開催したという話だった。

自分の高校はほぼ100%進学の女子校で、理系コースも当然全員女子だし、両親も、理系でもなんでも行きたい方向に行け、という方針だったので、理系志望の障害はなにもなかった。
学校が女子校なのはともかく、両親に反対されなかったというのは、実は希有で幸せなことだったのか。
上記のSay::So?さんの記事でも、理系進路に対する親の反対については簡単に触れられている。

しかし、根強い親たちの「理系女子バッシング」をそう簡単に変えられるとも思えない。
彼らのバッシングの理由は「理系女子じゃ嫁のもらい手がない」だの「理系女子は就職先に困る」だの「賢い女は可愛げがない」だの「女はそもそも勉強なんかしないでいい」だの、まあ特別根拠もない漠然としたものなのだろうが、逆に、それゆえに反論でねじ伏せることも難しい。

そこで思うのだが、これから先、理系女子を増やすためには、理系女子に対する理解のある親を増やすのがいいんじゃないだろうか。
理系女子に理解のある人物といえば、まずは自分が理系女子だったり、理系女子と恋愛し結婚した男性だったり。
つまり、理系女子がどんどん結婚して子ども(特に娘*1)を産めばいいのだ。
理系母とその夫なら、自分の娘に理系に進みたいと言われて頑として反対する者はまずいないだろう。

無茶苦茶な結論のように見えるかもしれないけれど、実際、優れた女性が子どもを産まないのは、遺伝子的にはちょっともったいない、と思う面もある。
当然、結婚だの出産だのは本人の意志次第のことだし、理系に限らず、子どもは欲しいけれど仕事と育児を両立させる環境が整いにくい、という事情も現実にあったりするから、難しいことなのだけれど。

*1:息子だってもちろんいい。ただ、理系女子を増やすという観点からは、息子だと影響が少ないというだけだ。それを言ったら理系母の娘が文系に進むことだってあるわけだが。


posted by あずみ at 14:40| Comment(6) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月16日

「いじめたい」には理由がある気がする

最近の報道は、いじめ自殺の件でかまびすしい。
そして、あちこちで、いじめられっ子への応援だの、いじめっ子への非難だの、いじめ先生への糾弾だの、自殺報道への非難だの、果ては文科省にいじめ告発の手紙まで続々届いたりして、もはやカオス状態である。

自分自身は、いじめらしいいじめを受けることもすることもなく、近くで見かけることもなく、学生生活を終えた。
たぶん、いじめが近くになかったわけではないのだろうが、それがはっきりといじめという形を取ることがなかったのだろう。いじめは多対一の構成である、とどこかのブログで読んだ。人間関係上での確執は、小学校から高校に至るまで確かにいろいろとあったが、多対一という構成をとることはなく、多対多(友達グループ間の確執)であったり、なんとなくクラスの中で浮いていたり避けられがちだったりする子はいても完全に無視されたり暴力的な行為をされることはなかったりと、そんな状況ではあった。

避けられがちだったり、なんとなく友達がいなかったりする子は、本人にそれなりの事情はあった。
自分の記憶にある子では、非常に無口でおとなしく、自分から積極的に動くこともなく、友人としてはどう接していいかわからないような子。嫌われる要素があるわけではないが、いつも一人という感じになり、好きな子同士の班分けをすることになると、結局一人余ってしまう。
また、なぜか服装がみすぼらしく見える子もいた。女の子なのだけれど、いつも暗く色彩の色あせた服で、スカートをはいてくることがなかった。髪も男の子のような短髪。かといってボーイッシュなのでもなく、加えてしゃべり方がなんとなく癇に触るというタイプ。ちょくちょく彼女としゃべる機会もあったが、しゃべっている内容は普通なのだけれど、声質やしゃべり方がどうも好きになれない、という感じであった。

当時、そんなふうになんとなく離れてしまう子でも、あからさまないじめに遭っていることはなかった。もちろん、たまたま自分のクラスがそうだっただけかもしれないが。
積極的に近寄って仲良くしよう、ということはないけれど、積極的にいじめたり無視して仲間はずれにしてやろう、というわけでもない。
そんなのが普通だったような気がする。

いじめという行為は、積極的かつ攻撃的な行為である。
単にその子にあまり興味がない、別に親しくなりたいと思わない、という段階を超えて、その子を傷つけたい、屈させたい、馬鹿にしたい、という暴力的な意志がなければ、いじめは始まらない。
無視によるいじめにしても、何をしゃべってきても、必要があって接することになっても、絶対に無視する、という強固な意志がなければなかなか成立しない。子どもの頃に「もう絶交!」と友達と"絶交"した経験のある人なら分かるだろうが、「絶対に無視する」というのは相当な精神的エネルギーを要するのだ。

そこまでエネルギーを消耗してまで他人を攻撃したい、という気持ちは、正直自分にはよく分からない。
なんとなく、幼児・児童虐待に近い根があるんじゃないのか、と感じている。
幼児・児童虐待の場合、子どもに対する憎しみのために虐待するわけではなく、親自身の抱えている大きなストレスがあり、それを発散するためにより弱い存在である子どもへの虐待によってストレスを解消しようとする、というからくりがある。
いじめも、そういう面が大きいのではないかと感じるのだ。

いじめは、どうしても現実に起こっている現象や、被害者や学校側に注目が行きがちだけれど、本当はきちんと解決したいなら、いじめ加害者側へのフォローが重要なのではないかと思うのだ。
今回の一連のいじめ自殺報道の端緒となった福岡の事件がその典型だと思うのだが、いじめグループは、被害者が自殺したあと、いじめを反省するどころか、今度は別の子を標的としていじめを始めたという。
彼らは、被害者に憎しみがあるからいじめたかったのではなく、いじめという行為をしたかっただけだったのだ。欲しいものがあるから万引きするのではなく、万引きという行為をしたいから万引きするのと同じだ。

彼らはかなり悪質なほうだと思うが、同様に、表立ってはいないが、いじめによってストレスを発散したいがためにいじめをする、という例は数多くあるのではないかと思う。
そういう者たちに「いじめは悪いことだからしてはいけない」と言ってもやめるはずがない。
彼らの抱えるストレスに対し、精神的ケアを行わなければ、いじめは止まらないと思うのだが、実際は、親や家庭に問題があってそもそもストレスの元がそういうところだったりするケースがけっこうあるのではないかとも思われる。
教師ではそこまでするのは専門家でもないし、困難だろうから、スクールカウンセリングがもっと普及すればいいのかな、とも思う。

とりあえず、「いじめは悪いことだから」と言っても、いじめっ子たちの心には全く響かないだろうとは思っている。
posted by あずみ at 12:43| Comment(13) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月02日

必修科目に必然性はあるのか〜高校未履修問題(その2)

前の記事に続き、高校未履修問題について、気になっていた点その2について。

今回の未履修問題では、本来必須であるはずの世界史の未履修が大きな問題となっている。一部には家庭科や保健、芸術科目の未履修の報告もあるが、最も未履修者が多く、クローズアップされているのは、世界史を含む地理歴史(地歴)科目である。

受験に必要ない、というのが理由であれば、もっと不必要な科目はある。上記にも出た家庭科、芸術、そして保健体育、そして総合的学習の時間。
実際には内容的に別の科目に振り分けられている可能性のある総合的学習の時間は別として、上記のより「必要ない」科目を削られるケースは少なく、むしろかなりの生徒にとって受験科目ともなり得る*1世界史が問題となっている。

つまり、今回の問題の本当の焦点は、「受験に必要ない科目をやらない」ことではなく、特定の教科において、特に蓋然性もなく必修とされた科目があり、それによって特定の教科の必要単位数の現実的な増加、他の教科への圧迫が起こり、現場からするとどうにも首が回らなくなっていて、本当はそうしたくはなくても、学習指導要領に反するしかない、ということなのではないだろうか。

個人的には、世界史は大好きだ。日本史も好きだが世界史はめちゃくちゃ好きだ。受験が不利になるかもと思っても、好きな教科で受ける方がやる気が出てよく頭に入るはずだと世界史を選択履修した人間である*2。愛してると言ってもいい。
しかし、高校の必修として世界史が必要かには、疑問がある。
必修ということは、高校卒業程度の教養として必要だ、という考えだと思うが、そこで日本史を差し置いて世界史というのは納得しがたい。どうしても必修とするなら日本史だろう。
国際紛争の根拠などに対する国際的な知識を身につけるため、ということなら、地理で十分。地理の範囲で宗教、戦争の影響など重要な事項に触れればいいだけだ。
どう考えても、世界史を必修とする意義が見えない。せいぜい、世界史、日本史、地理の3つから選択、程度の重要性だ。

そこで、この中から2科目選択としたらどうか、と仮定してみた。
そこで以下のリンクを見る。
参考リンク:文部科学省 高等学校学習指導要領−附則−
以下、このリンク先の科目表記にもとづいて。

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posted by あずみ at 11:27| Comment(6) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月30日

未履修問題と「なんで勉強なんてしなくちゃいけないの?」〜高校未履修問題(その1)

最近世間を賑わせている、高校の必須科目の未履修問題。
これについて思うところが2点あるのだが、まずはそのうちの1点について。

最初の富山県立高校のニュースが報道されてから、それに絡むいくつかのブログを読んだが、その中のいくつかで、「受験に関係ない科目はやりたくない、という受験主義の生徒も悪い」という意見が見られる。主に、卒業が3年2学期のこの時期になってから急に危うくなったり、受験期なのに猛烈な補習をせねばならなくなった生徒たちに同情的な報道などに言及したブログで見られた。
中には「生徒は被害者じゃない、加害者だ」とまで書かれたものもある。

これらの意見を読んだとき、私は「やはり生徒たちはかわいそうだ」と思った。
彼らに「受験にいらない勉強は必要ないもので、学ぶ必要はない」と刷り込んだのは、いったい誰なのだろうか。

私の上の子は現在5歳半。とにかく勉強が楽しくて仕方ないらしい。
もちろんこの年齢なので、やることはひらがなの読み方、カタカナはまだ読むくらいまで、数字を数え、大きさくらべをし、簡単な足し算引き算をする程度。あとは、迷路やしりとり、仲間わけや間違い探しなど、いわゆる知恵あそびの類。
ドリルをやり出すととまらなくなり、一気に10ページ以上やってしまう。解けるのが楽しい。
新しいことを覚えるのも楽しんでいる。小学生向きくらいのNHK教育の番組も真剣に見て、しまじろうの教材本やDVDからも次々と知識を吸収して、ときに「ママー、○○は△△からできるんだよ、しってた?」などと披露してくれる。

かわって、自分自身のことを思い出してみる。
やっぱり勉強は楽しかった。
もちろん目的のために受験勉強もした。受験勉強自体はテクニックであり、目的のための手段にすぎず、そう楽しいものではなかったが、それなりに面白く、特に嫌いということはなかった。
それとは別に、目的と関係なく、いろいろな知識を学ぶこと、新しく何かをできるようになること、覚えた知識を元にして新たなことを考えることができるようになることが、純粋に楽しく、自分自身がより大きな立派な何かになっていくような気がした。むしろ受験という目的と関係なかったからこそ楽しめたともいえる。
少なくとも、高校生当時の自分にとって、不必要な勉強というものはなかった。勉強したことが自分自身の財産になることは、自分の頭が一番よく分かっていた。
受験には不必要、と限定しても、少なくとも、学習指導要領という決まりを曲げてまで排除しなければならないほど忌避すべきものだとは考えもしなかったし、そもそも学習指導要領の内容すら知らなかった。
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posted by あずみ at 12:26| Comment(8) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月01日

小学校の英語必修化は結局できないような

asahi.com: 小学校の英語「必修化の必要ない」 伊吹文科相 - 教育

もう、ちょっと前の話になってしまったが、新文部科学相は小学校での英語必修化に否定的である、という話。
私自身は、小学校での英語必修化は反対の立場。
ただ、それは、
美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ

(上記ニュースより引用)

という理由ではない。
幼いころに英語を学ぶこと自体は別に悪くない。日本語以外の言語・国があるということに親しむとか、外国語の発音に耳を慣らすとか、確かにメリットもあると思う。
問題は「必修化」というところだ。

事実上、現在の小学校で時間を割いてできる英語の授業は、そのコマ数や教師・講師を考えると、街の就学前の幼児向け英会話教室のレベルを越えるものではありえない。
せいぜい、アルファベットの1つずつの読み方を教え、あとは簡単な英語の歌を歌ったり、「りんごはapple」「おはようはGood morning」程度の単語を覚えたり、"How are you?""I'm fine,thank you."程度の英会話をしたり、そんなものであろう。
コマ数がたっぷり余っているのだったら、これでも問題ない。
しかし、現実には、ゆとり教育だの週休2日制だので、ただでさえコマ数がかつかつになっているわけだ。
そんな中で、さらに英語にコマを割く余裕があるのだろうか。
英語にコマを割けば、そのぶん割りを食う教科が必ず出てくる。現状で、この教科は余ってるから削ってもいいですよ、などという教科があるのか。

主要4教科は、今の時間数でも十分についていけていない子どもらが多数いるのがわかっているから、削れないだろう。
あとは、その他の、図工、体育、音楽、家庭科など、総合的なんとやらというのもあったかな? そのあたりを削ることになるのだろうか。もともとそうコマ数が多くないところからさらに削ると、週に1度も授業がない教科がでてきそうだ。まともに削れそうなのは体育くらいだが、それはそれで猛反対にあいそうだし。

もし英語を必修化するなら、少なくとも、コマ数を週休2日制になる前と同等くらいに戻さなければならないと思う。
かといって、土曜午前の授業を復活させろとは思わない。自分の子どものころから、なんで土曜は休みじゃないんだろう? と思っていた。お父さんは休みなのに、自分らは休みじゃないから、気軽に家族で遠くまで遊びにいくこともできなかった。そもそも午前だけ、というのが中途半端でいやだった。
あの時代よりもさらに官公庁などを含め土曜休日が一般的になった*1現在では、いまさら土曜に授業……という感がある。
コマを戻すなら平日を1日7時間とするほうがスムーズかな、と個人的には考える。ここは異論も多数あるだろうが。

とりあえず、現状のまま英語必修化はさまざまな面で無理があると思う。
美しい日本語云々、という意見はあまりに曖昧で意味がないと思うが、この流れで英語必修化が見直されるなら、それはそれで個人的には歓迎するだろう。

*1:同時にサービス業などで土日以外休が増えたのももちろん承知しているが。


posted by あずみ at 08:48| Comment(4) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月07日

水からの伝言(笑)マイナスイオン(笑)

今日のネタはこれである。これもはてなブックマークから見つけてきた。最近使い始めたばっかりだが、いろいろ役に立つネタ、勉強になるネタ、面白いネタが多いのでありがたい。人間の力ってすばらしい。
文化・真摯な科学者達「ニセ科学フォーラム」報告

私自身、若いときはムーとかオカルトとか大好きだったし、タロット占いやってみたり(今でもデザインは好き)、超能力実験やってみたり、まあ若かったからできたことだが、そういうのは実のところ好きなのだ。
が、それは科学とは別物であることは、よく分かっている。
ニセ科学、疑似科学の問題は、科学的な手法による立証なく、まるで科学であるかのように装うところである。科学でないとはっきりさせておけば、オカルトだろうとなんだろうとアリである。イワシの頭も信心なのである。

我が家は旦那ともどもバリバリの理系で、我が家の会話では「マイナスイオン(笑)」「酸素水(笑)」とこういった言葉は「(笑)」または「(苦笑)」つきでしか話されない。
そういう家ばっかりならまあ安心なのだが、必ずしもそうではない。お母さんが「このドライヤー、マイナスイオン出るから髪がつやつやになるのよねー」まあ本人がそう思っているなら商品満足度としては高いのでいい。メーカーも本人も店も誰も困らない。が。

以下、リンク先記事より引用。
 「水は美しい言葉(例:ありがとう)と汚い言葉(例:ばかやろう)を理解して、美しい言葉を(紙に書いて)見せると美しい結晶をつくる」という、『水からの伝言』と称する珍説(※筆者の意見)が、小学校の一部の教育現場で「道徳教育」に使われている。


これはいかんでしょ! 道徳は科学じゃないが、だからといって科学上での嘘を教えていいはずがない。諸説がある、というようなレベルの話じゃないのだ。物語のようなフィクションならばまだしも。
しかもだ。これは小学校なので、この道徳の授業をする先生は、理科の授業をする先生と同一人物である。
これはいけない。

話がこの記事とも関係するけれど、本当に今の小学校の先生のレベルはどうなっているんだか。
先生たちも、本当なら教えたくないこと嘘を教えろと強要されている被害者なのかもしれないけど、なんとかしてください。正直、かなりショックです。

最後に、個人的に、今回のリンク先記事にも載っていた、Wikipediaの「マイナスイオン」の項のリンクを張っておく。自分としてはごく中立的によくまとまっていると感じた。
マイナスイオン - Wikipedia
posted by あずみ at 21:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月04日

「理科は面白い」ことを伝えられないのは

今日のニュースでこういうのがあった。
MSN毎日インタラクティブ
理科離れについて長らく取り沙汰されているが、私自身は、子どもが理科離れするのも当たり前だと思っている。
なぜなら、教えている小学校教員の多くが、「理科はつまらない」「理科はよくわからない」「理科は苦手」だと思っているから。
……とそう思っていたのだが、実際そうらしい。この記事の中にこう書いてある。
 小学校の教員は文系、理系を問わず各教科を教えるため、理科が得意でない教員もおり、現場では英語の外国人指導助手に準じた「助手」の導入を望む声もあった。

小学校教諭の免許は、通常、必須単位取得の面などで、教育学部の小学校教諭養成課程など、それ専門の学校にいかないと取得困難である。高校教諭などならば、理学部や農学部、工学部(もちろん文系学部も)など、その他の学部に進んだのち、教職の必須単位を取得して免許をとることも可能だが、小学校はなかなかそうはできない。
したがって、だいたい、高校卒業時に「小学校の先生になりたい」と思う人がそちらに進むことになるが、このように思う人の中に、いわゆる理系が何割いるかと思うと、かなり悲観的になる。実際、自分が高校の時に、理系クラスにいた中で、教育学部に進学した子はいなかったと記憶する。「理系に進もう」と考える子にとって、教育学部というのは、かなり遠い存在なのである。相当、そのつもりで「私は理科や数学の楽しさを小さい子どもたちに教えたい!」と思わない限り、そういう選択肢が頭に出てこないのである。
そして、高校卒業時点で、そこまではっきりと自分の将来を描く子は、大変少ない。漠然と「小学校の先生になりたいなぁ」と思う子はいるが、そういう子はたいてい文系を選択していて、自分でも文系が得意だと思っているのである。

小学校教諭に求められているものが多すぎると思う。
教科を教えることも大事だが、子どもたちの人生最初の義務教育として、生活するうえで大事なこと、一般的な常識やルール・モラルとされること、集団生活に慣れること、その他もろもろを教えることも重要である。
が、その全てをやろうとすれば、1人の担任だけではどう考えてもオーバーワークだと思うのだ。そこに加えて、教科を教え、自分の苦手な教科も教えなくちゃならないとなったら、それは十分にその教科の良さ、楽しさを教えることができるわけがない。苦手なことをやろうとしたら、それだけ労力もストレスもかかる。自分に余裕がなければ難しい。

だから、このニュースのように、別に理科をサポートしてくれる人、理科が好きで理科を十分に(少なくとも小学生レベルでは)理解している人を登用するのはよいことだとは思う。
だが、個人的には、助手レベルの話ではなく、小学校も中学以上と同じように、教科担当を分けるべきだと思っている。完璧に分けないにしても、算数・理科とその他の教科くらいは分けるべきじゃないのか。できれば体育、図工あたりも分けてほしい。1年生から分けろとは言わないが、3年生くらいからは分けたほうがいい。
どうせ英語を導入したら、英語を教えられない先生がいる。今現役の先生で英語教育について教職の必須課程で習った人は皆無で、つまり子どもの英語教育についてはどう考えても素人、そこらの親と同レベル、ネイティブじゃないから英会話教室の素人外国人よりもレベルが低いのに、「先生として」教えねばならない。そんな気の毒な話があるか。
この機会に全部分けてしまえばいいのに、と思うが、そういう人はあまりいないのだろうか。
posted by あずみ at 11:41| Comment(6) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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